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廣岡浅子の生涯からまなぶ⑥

平野琢 企業倫理、リスクマネジメント

22/07/11

今回は浅子が晩年に取り組んだ多角化経営の中で保険業への進出について話していきます。石炭ビジネスにおいて悲願の成功を手に入れた浅子ですが、その後も事業拡大に身を投じていきます。その活動の一つに保険業、簡単に言えば生命保険会社の進出というものがあります。石炭ビジネスが成功しその後数年たった1899年に浅子達が経営する加島屋に真宗生命という生命保険会社から経営再建を助けてくれないかという申し出があります。浅子達が経営する加島屋はこの申し出を受けて、この年の内に真宗生命を買収して社名を朝日生命と改名し保険事業に進出し始めます。一点注意が必要で、朝日生命は現在もありますが、この朝日生命と加島屋が作った朝日生命は関係の無い会社です。

今でこそ保険業界は世界に巨大なマーケットを有する業界ですが、明治時代は実は決してそのような大きな市場があるものではなかったのですね。ではなぜ浅子はそれにも関わらず、保険業に進出したのでしょうか。これらの保険業というものが現代の形、統計的なデータに基づいて保険料率が決まるような運営が行われ始めたのは18世紀頃のヨーロッパであったと言われています。更にこれが日本に導入され始めたのは明治時代になってからで、19世紀以降だと言われています。そして諸説ありますが、この保険業を紹介して日本に広めた人物は福沢諭吉であったと伝わっています。実際に19世紀の終わり、1881年に日本初となる保険会社、今の明治安田生命の源流にあたる明治生命なのですが、これを始めたのは福沢諭吉の門下生である阿部泰蔵という人でした。日本各地で保険会社の設立が取り組まれ始めたのはもっとその後になります。これらを踏まえると、浅子が保険業に進出した1899年は保険業が日本に広まり始めて間もない時代だったと言えるかと思います。ではこの広まり始めた保険業というビジネス、明治時代の日本人に受け入れられて、大きな市場成長が確約されていたのでしょうか。資料を見てみると、実はあまりそうではなかった。発展途上でまだ不確定な業界というのが精一杯の状況だったと言えます。

何故かと言うと、まず保険業に対するイメージがその当時の日本人には好意的ではないという面がありました。保険では人が怪我をしたり死亡したりする確率を統計的に求めて、基準となる保険金額や給付金額というものを定めていかなければなりません。この点が当時の日本において、保険業は人の命で商売をするという今から見ると誤っていますが、よくないネガティブなイメージを作り上げてしまいました。保険をやる事業者、企業のイメージもあまりよくありませんでした。保険事業は先程お話した通り1881年から始まったものの、当時はまだやっぱりこの保険業を規制する制度はほぼ整備されていませんでした。そのため、真に利用者を考えた良い企業もあれば、逆に企業利益を優先して利用者から搾取をするような企業もあり、保険企業に対する信頼性が今ほど高いものではありませんでした。

経営者として、発展途上であっても今後ビジネスが成功していくという浅子なりの読みは有ったと思います。実際に真宗生命を買収する際も、最も信頼の有る部下を真宗生命に派遣して事業の収益性、企業の改善点などを念入りに調査し、再建の見込みを得た上で買収の意思決定をしています。しかし、浅子や加島屋に関連する資料を見ると、収益性だけで進出したのではなく、やはり保険事業そのものが社会にとって有益であったことが進出の大きな理由として存在したことが伺えます。例えば加島屋が保険業へ進出する決意を固めたいきさつを記した資料が現在も残っており、これは大同生命の70年史なのですが、そこには生命保険事業が他の一般営利事業とは異なり、相互扶助の精神を基調とする社会、公益のための事業であることに強く心を動かされて、その経営に乗り出す決意を固めたと記されています。また、浅子の功績をまとめた記事にも生命保険事業の根底には、やっぱり社会の幸福を増進したいという精神が存在し、広岡浅子がこの未熟な保険市場に対して進出したのはこの精神に共鳴したからではないだろうかとも記載されています。更によく調べてみると、進出した際に加島屋の経営は炭鉱が成功したとはいえ、ものすごく潤沢に資金があったわけではありませんでした。そのような資金不足の状態においても保険事業に新たに進出した背景には、やはりこの事業の社会や公益性、これに対する共感があったからだと考えられます。この時加島屋が設立した保険会社はその後合併や再編を経て現在の大同生命の源流になっており、浅子、そして加島屋の思いが込められた保険会社を私達は現代社会においても見ることが出来ます。

今日のまとめです。多角化の一環として保険業へ進出した広岡浅子、その進出の背景には収益性のみならず、社会を救済し、人々の安定をもたらしたいという浅子の願いがありました。

分野: 企業倫理 経営リスクマネジメント |スピーカー: 平野琢

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