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廣岡浅子の生涯からまなぶ①

平野琢 企業倫理、リスクマネジメント

22/04/27

今回から何回かにわたって、広岡浅子の生涯とその活躍についてお話していきたいと思います。
皆さんは広岡浅子をご存じでしょうか。広岡浅子は明治から大正にかけて大阪を中心に活躍した女性実業家、経営者です。正に日本経営者の草分け的な存在と言える人物だと思います。広岡浅子は生涯を通じて多くの企業の創業に携わると共に、日本女子大学等の設立を通じて女性教育の発展にも大きな貢献を果たした人物です。このような説明よりはおそらくかつて連続テレビ小説の「あさが来た」のヒロインである白岡あさのモデルというとイメージがつきやすいかと思います。浅子が創業に関わった組織としては大同生命等現在も存続している組織があります。ドラマの内容については覚えている人が多いと思いますが、実際の史実の広岡浅子はどのような人だったんでしょうか。まず今日は第一回目として広岡浅子の幼少期のエピソードを辿っていきたいと思います。

広岡浅子が生まれたのは江戸時代の終わり、正に幕末と呼ばれる1849年、昔の年号でいうと嘉永二年になります。彼女は豪商、今でいうところの大手企業の三井家の一つである出水三井家の四女として生まれました。時は江戸時代、儒教文化が非常に庶民に根付いていた頃なので、女性は良妻賢母となるが努め、理想とされる時代でした。ですから幼少の浅子にもその価値観を元にした古き女子教育というものが施されていきました。当時の女子教育はお琴やお茶等の芸事、そして習字や家庭生活に役立つ裁縫等が主だったのですが、後年の振り返りでは広岡浅子はこれらの稽古は全く好きになれなかったと述べています。

広岡浅子の幼少期はドラマの中でもかなりやんちゃに描かれていました。あのドラマの描き方は非常に史実とも合致していまして、浅子はやはり活発だったので少年期は専ら相撲と木登りが好きでした。成長してからは学問や読書が好きだったという記録があります。記録とエピソードを辿ってみると、幼少期の頃は日々男子と相撲をとっては髪を振り乱し、親に「女子なのに暴れて髪を振り乱すとは何事か」と怒られると、浅子は「ならば」と言って長い髪を自ら勝手に切ってしまったというエピソードも残っています。

他にも様々なエピソードが幼少期の頃残っているんですが、行動的であり、自分の意見に正直な浅子の性格というものが幼少期から存在したということが伺えます。しかしこれらの行いのせいでしょうか、とうとう浅子は13歳の時に読書の禁止と男子の真似事の禁止を親から言われてしまいます。これは当時の浅子にとっては非常に納得いかない、だけど時代背景もあり従わざるを得ない辛い経験だったと思います。しかし、この経験こそが何故女子は男子と同じことをしてはいけないんだろうか、特に女子に学問は必要なしは正しいのかというその後の経営者浅子の根本的な社会に対する問題意識のベースになったと言われています。実際に広岡浅子は後年この経験に納得がいかなかったということを述べていますし、自身は生涯を通じて本当に様々な学びを続けていきます。また自ら創業した企業において、社員教育等も積極的に行っていきます。さらに学びには性別も社会身分も関係ない、全ての人が学ぶことが重要であるということを広岡浅子は生涯を通じて伝えていきます。だからこの幼少期の経験が広岡浅子の人格形成には非常に大きな影響を与えたと考えられます。このような浅子ですが、いよいよ幕末、戊辰戦争の足音が近づく1865年、数え年17歳の時にお嫁入りします。嫁ぎ先は大阪の大手の両替商である加島屋の分家の当主、広岡信五郎のところに嫁ぎます。この両替商、簡単に言えば金融業のようなものです。この頃、大手の両替商は貨幣の両替業務を超えて、その資本力を活かして為替、預金、貸付、つまり大名や商人に対するローンのような業務を行い、正に現代で言う大手金融機関の役割を果たしていました。実際に両替商をこの頃営んで、その経験から後に銀行となって現在でも金融機関として事業継続している組織は多くあります。代表的なものでいえば、三井家はその一つにあたると言えます。浅子が嫁いだ加島屋ですが、その中でもかなり大手でした。昔の資料には両替商の相撲番付のような形の番付がありますが、加島屋は前頭の筆頭の方に名前が書かれています。

かなり大手だったので、嫁ぎ先としては昔の表現でいえば、安定した嫁ぎ先であったと言えます。ではこの安定した嫁ぎ先に嫁入りした浅子は何故そこの奥様に落ち着かず、経営者としての道を歩み始めたのでしょうか。次回はこの点について話していきたいと思います。

今日のまとめです。明治から大正にかけて大阪を中心に活躍した女性実業家の広岡浅子。その幼少期のエピソードを辿ると、広岡浅子が男女の平等、特に女性の学ぶ機会の重要性を生涯を通じて主張するに至った背景にある大きな経験というのが垣間見えます。

分野: クリティカル・シンキング スピーカープロフィール タグ 企業倫理 経営リスクマネジメント |スピーカー: 平野琢

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