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民間外交と渋沢栄一②

平野琢 企業倫理、リスクマネジメント

22/01/04

昨日から渋沢栄一を取り上げています。渋沢栄一の民間外交というテーマですが、今日は渋沢栄一が民間外交においてどう活躍したかの具体的なエピソードについて、いくつかお話していきたいと思います。前回もお話したとおり、渋沢栄一は数え年で古希の時に引退したのですが、この前後10年間において民間外交を積極的に展開しているのです。具体的には、晩年の渋沢は世界各地の要人、しかも各国の大統領や首相クラスの人がくるような大きなイベントの歓迎行事の陣頭指揮をとったり、アジア・ヨーロッパ・アメリカ各地に積極的な実地視察に出かけているのです。

もちろん政府からの要請もあったのですが、渋沢自身がその重要性を発言して提案して海外視察に出向いたという記録も残っているので、あながち政府からの要請だけで行ったというわけではないです。大きな活動としては、1902年にアメリカ・ヨーロッパを現地視察して各地の商工会議所のメンバーと交流をしたり、アメリカの時の大統領であるルーズベルトとも会談したという記録が残っています。また、1909年にはアメリカに行く実業団の団長として経済界で活躍する民間人50名を率いて、3か月にわたってアメリカを横断しながら様々な機関を訪問したという記録もあります。

この訪問団ですが、歴史的にみるとメンバーが非常に面白くて、東武鉄道の社長であった根津嘉一郎や三井物産の取締役であった岩原謙三など、当時まさに実業界の第一線で活躍する人物に加えて、若手でその後活躍した人物。例えば、松坂屋というデパートをその後創業した伊藤祐民や富士電機製造会社の初代社長になった名取和作のような、その後の日本の実業界を背負う人たちもメンバーに含まれていたという記録が残っています。その他の記録によれば、渡米した時には非常に多くの企業や施設を見学するとともに、当時の大統領であるウィリアム・タフトとか鉄道王と呼ばれたジェームス・ヒルや発明王と言われたトーマス・エジソンとも面談したという記録が残っていて、非常に充実した現地視察だったのではないかと思います。渋沢によるアメリカ訪問は、その後の日米通商航海条約の改正の予備的な交渉の役割を果たすと共に、日露戦争後悪化した日米関係の改善に対して機能したと後年評価されています。当時は、もちろんのこと太平洋横断する空路が整備されていなかったため、40~50日をかけて60才を超えた渋沢がヨーロッパや米国を訪問することは相当な苦労があったと思います。

この他に変わった渋沢の民間外交・国際交流としては、子供たちの日米親善のために大量のお人形を交換して日本各地に配布したという活動もあります。この活動なのですが、日露戦争以降日米関係が悪化する中で未来を担う子供たちの間で国際親善を図ろう。そのためにはお互いの国の人形を交換して子供達に配布して彼らが遊んでくれればきっと未来の日米関係は良くなるというアメリカ人宣教師の提案を受けて、渋沢がその実現のために尽力した活動になります。彼はこの活動のために日本国際児童親善会という組織を立ち上げ、自ら会長に就任しその活動に協力しました。活動を1回限りで終了させずに継続的に行われるようにこのような組織を渋沢は立ち上げたのですが、まさにこの組織を立ち上げたところに渋沢の本気がうかがえます。この活動では、アメリカから約1万2000体以上の人形が日本に送られ日本からも58体の市松人形をそのお礼として送ったと記録が残っています。残念ながら、その際アメリカから贈られた人形の多くは太平洋戦争の開戦に伴い、敵国の製品であるとして処分されてしまいました。ただ現在でもこの戦災を乗りきった人形がいくつか存在していると言われています。実際この福岡においても、糸島市や久留米市などの小学校においてこれが残存していた、あるいは公開されていたという記録があります。本当に人間らしいエピソードで私はこれが好きですね。

彼の民間外交で一番大切にされたことは、平和と共存だったのです。それを考えると確かに、両国が共存し仲良くなるために贈りあった人形が処分された、これは渋沢にとっては非常に悲しい出来事だったと思います。渋沢の行った民間外交への評価も色々な場所で見る事ができます。まず、渋沢は1926年と1927年にノーベル平和賞の候補として推薦されたのです。残念ながら受賞には至りませんでしたが、渋沢の貢献を社会が高く評価していた1つ証拠になるかと思います。また、渋沢が逝去した際はアメリカのニューヨークタイムズが渋沢について、国際親善のためにたびたびアメリカを訪れていた日本の歴史を作った子爵、日本のグランド・オールドマンと呼ばれていたと書いてその死を深く悼んでいるのです。彼は正に世界が認める民間外交の担い手であったということが分かるかと思います。

今日のまとめです。渋沢が行った様々な民間外交の足跡は、現在でも色々な場所でたどることができます。渋沢の活動が改めて注目される今、民間外交の担い手としての渋沢の理念や活動を改めて学ぶことこれは非常に意義があるかもしれません。

分野: 企業倫理 経営リスクマネジメント |スピーカー: 平野琢

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