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ブックレビュー(11)マキアヴェッリ(河島英昭訳)『君主論』(岩波文庫)

永田晃也 技術経営、科学技術政策

19/10/07

今回はブックレビューとして、マキアヴェッリの『君主論』を取り上げてみます。

昔からリーダーたる者が読むべき古典として度々挙げられてきた書物なので、この番組でも紹介しておきたいと思ったのですが、追って申し上げるように、私はこの書物が指南している君主のあり方を、ビジネスリーダーが直接学ぶべきものと考えているわけではありません。なお、入手可能な邦訳書は少なくとも6通り以上ありますが、ここでは岩波文庫の新訳版を参照します。

著者のニッコロ・マキアヴェッリは、1469年、つまりルネッサンス期にイタリアのフィレンツェ市で生まれました。マキアヴェッリの家系は貴族ではないけれども旧家であり、父親は法律家であったことが知られています。

マキアヴェッリは、1498年、29歳のときにフィレンツェ政庁の書記官に就任するのですが、この間、フィレンツェをめぐる政権は大きく変動しています。

マキアヴェッリが生まれた年の末には、共和制であったフィレンツェを実質的に支配者していたピエーロ・デ・メーディチが亡くなり、実権が二人の息子に移るのですが、そのうち弟は陰謀によって殺され、危うく難を逃れた兄ロレンツォが、その後メーディチ家の繁栄を築くことになります。このロレンツォが1492年に亡くなると、フィレンツェの政権は息子のピエーロに受け継がれることになるのですが、ピエーロは政治的に無能であったため、1494年にフランス王シャルル8世のイタリア侵攻を許してしまい、それが元でフィレンツェ市民に追放され、一時、メーディチ家の政権は崩壊します。

こうしてメーディチ家の世襲による君主制から、共和制に復した後のフィレンツェで、マキアヴェッリは書記官に就任し、以後14年間に亘って外交任務を帯びた仕事などを担っていきます。

ところが、1512年にフィレンツェがスペイン軍の攻撃を受けたとき、武装したメーディチ派の人々が、フィレンツェの都市と全住民の破滅を回避するためと称して市庁舎に乱入し、当時共和制を敷いていたソデリーニを退陣させるという事態が起こり、メーディチ家による君主制が復権します。翌1513年、ソデリーニの右腕であったマキアヴェッリは、反メーディチの陰謀に加わったという嫌疑を受けて投獄されてしまいます。ただ、間もなく恩赦によって釈放されています。『君主論』の原稿は、釈放後に執筆されたと推定されていますが、その出版は1532年、マキアヴェッリが貧しい生活の中で亡くなってから5年後のことでした。その冒頭には、メーディチ家の人物に対する献辞が掲げられており、その意図について後世の人々は様々な憶測をめぐらしています。

長くなりましたが、こうした背景を踏まえてみると、『君主論』を字義通りに読むことで、マキアヴェッリが考えていた政治の理想像が理解できると考えることはあまりにも素朴であることが分かります。

マキアヴェッリは、まずあらゆる支配体制は共和制か君主制のいずれかであると述べた上で、本書で議論する対象を君主制に絞り、特に新たに獲得された君主の権力が維持されるための要件について、次のように論じて行きます。古い君主の血筋は抹消してしまうこと、新しい支配地の人民は優しく手なずけるか、さもなければ抹殺してしまうこと、新たに支配した都市は抹消するか、そこへ行って住むこと、加害行為はまとめて一度になし、恩恵の方は少しずつ施すこと、良き法律と良き軍備を土台として持つこと、軍備は自前で持つこと、平時においては戦時よりも一層軍事訓練に励むこと、政権を守るためには悪評を恐れてはならないこと、慕われるよりも恐れられていた方がはるかに安全であること、憎悪や軽蔑を招く行為は避けること、中立を守るより一方に身方する態度を明確にした方が良いこと、君主よりも自分のことを考えている側近を断じて信頼してはならないこと。こうした政権維持の要件は、人間というものは生来、邪悪なものだという認識を前提にしています。

『君主論』の教えは、政権の維持という目的のためには手段を選ばず権謀術数を尽す現実的な政治思想として解釈されてきました。その教えは今日でも有効性を持つかも知れませんが、それが有効性を持つような世界が、もともと共和制の支持者であったマキアヴェッリの理想像であったとは考えらません。実際、『君主論』を手本として行動する政治家や経営者がいたとすれば、それは惨めなほど孤独な存在だと言わざるを得ません。『君主論』の古典としての価値は、その教えを反面教師として読むところにあると私は思います。

今日のまとめ:
マキアヴェッリが構想していた支配者の理想像は、『君主論』の教えを反面教師として読むところに見出されます。

分野: イノベーションマネジメント |スピーカー: 永田晃也

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