QTnet モーニングビジネススクール

QTnet
モーニングビジネススクールWeb版

FM FUKUOKAで放送中「QTnet モーニングビジネススクール」オンエア内容をWeb版でご覧いただけます。
ポッドキャスティングやブログで毎日のオンエア内容をチェック!

PODCASTING RSSで登録 PODCASTING iTunesで登録

タグ

QTnetモーニングビジネススクール > タグ一覧 > タグ異文化コミュニケーション

イギリスの歴史(23):農業改革

鈴木右文 英文法理論、コンピュータによる英語教育

15/10/01

「イギリスの歴史」23回目の今日は、農業のお話、「農業改革」と題してお届けします。
これからイギリスの歴史は複雑になっていくため、今日はここまでの話を簡単にまとめてみたいと思います。ここから徐々にビジネスの世界の話に近づいていきます。今日はその前座のお話です。

では、はじめに侵入してきた民族を順に並べていきましょう。こうすることで歴史が分かりやすくなります。
最初は、紀元前700年頃のケルト人です。ケルト人というと元々イギリスにいた人のようにみえますが、実は外から入ってきた人なのです。その次がローマ人です。紀元前1世紀から紀元後5世紀ぐらいまでいたと言われています。その後ヴァイキングが襲来してくるのですが、その少し前にアングロサクソン人が入ってきています。アングロサクソン人は5世紀ぐらいからいたと考えられています。ヴァイキングが大勢で来襲したのは約9世紀頃になります。そして現在のエリザベス2世まで血筋が続いている最初の王朝として、ノルマン朝が出来たのが11世紀です。これもフランス経由でやって来たノルマン人という人達が侵入してきたわけでした。11世紀・12世紀は、ノルマン朝が王朝を固めようと厳しい政治を行った時代でした。その後、12世紀から14世紀にプランタジネット朝が続きます。プランタジネット朝は小さい王国だったため、なかなかまとめるのに苦労したわけですが、家来からの突き上げもあり、議会が出来るなど混乱の時代でした。そうした中、薔薇戦争が勃発し、ランカスター家、ヨーク家の間で政権がたらい回しにされランカスター朝、ヨーク朝が出来ました。これが15世紀頃のことです。そしていよいよイギリスがヨーロッパの大国となる時代、テューダー朝へと突入していきます。15世紀・16世紀はエリザベス1世をはじめ、ヘンリー8世など有名な人々が勢ぞろいします。その後、エリザベスに子供がいなかったため、他の王様が連れてこられてスチュアート朝に移ります。スチュアート朝の途中でクロムウェルの共和制が一時入りますね。そしてスチュアート朝が終わると次は別のハノーヴァー家に移るわけですが、次回はハノーヴァー朝の時代の話から入ります。

復習はここまでにして、「農業改革」についてお話していきます。
農業改革にはキーワードが1つあります。「エンクロージャー」という言葉をどこかで聞いたことはありませんか。
世界史を学ぶ際には必ず出てくる言葉ですけれども、これは大きな土地を作るための区画整理を行う囲い込み、と日本語では言います。囲い込みとはどういうことかというと、イギリスに行かれた方は分かると思いますが、大きな牧草地や農地が広大にある中で、石垣を積み隣の敷地と区別をしているような部分があります。高さ50センチとか1メートルぐらいの石垣みたいなものです。そういった物を作って大規模運営をする区画という物を作ったわけです。そうやって大規模化により生産効率が上がったというのが1つの目玉でした。これはなぜそういう事をしなくてはいけなくなったかというと、人口増が影響しています。近代になると人口の増加に伴って大量の食糧が必要となりました。そのため農業の大規模化が行われるようになるわけです。ところが農業の大規模化を推し進めるうちに、農業に従事する人の数がそれほどいらなくなっていきました。そこでその他の人々がどこへ行ったかというと産業革命で工場の労働者へ移っていったわけです。この転換が非常に良いタイミングに起きたもこともあり、イギリスは歯車が良く回転して世界の工場となり産業革命を迎えたわけです。

いわゆる「エンクロージャー」だけではなく、いくつかの工夫があって増産体制が出来たわけなのですが、そのうちの1つが「家畜を使えるようになったこと」にあります。どういう事かというと、人力でなく家畜で畝をやるとすごく効率的なのです。ところが以前貧しかった頃というのは、家畜というのは冬を越すための食糧で、若いうちに殺して食べないといけなかった時代が続いていました。そのため、徐々に家畜を殺さずに生活できるようになったことで、家畜が長生きして力が出せるという形になってきたということが関連しているのです。そして、牛の後ろに箱のようなものを付けてまっすぐに引っ張らせ、種がまっすぐに落されていくという仕組みが出来たのもこの頃です。それ以前はミレーの「種を蒔く人」に描かれたように、種をばらまくのが昔の蒔き方だったわけですが、これでは効率が悪くて疎密が出来ますし、雑草が出てきて草取りが大変だったようです。しかし、一列に植えればその列以外の所に生えてきた雑草は全部取ってしまえばいいわけです。そうした小さな努力、効率化の積み重ねがイギリスの食糧の増産体制を支えていたわけです。先ほどの家畜の例でいうと、以前は村で1ヵ所にまとめて飼育していましたが、エンクロージャーの各区画にばらけさせて家畜を住まわせるようになりました。そうすることで、疫病が起こった時に一度に死ななくて済むようになり、これも非常に功を奏しました。

そして今まで三圃式農業といい、必ず休ませる土地を作っていました。ところがそこにカブとかクローバーとか使える作物があることが分かり、休ませる代わりにそういうものを作るようになり、全体の食糧生産高が上がりました。
今日は、18世紀になり産業革命を迎える前に人口が増えて農業が改善されていったという事がイギリスの世界の工場へ繋がったという背景をお話しました。

分野: 異文化コミュニケーション |スピーカー: 鈴木右文

トップページに戻る

  • RADIKO.JP